地雷除去屋・アキラ(アキ・ラー)
その少年は自分がいつどこで生まれたのかも正確には分かっていなかった。知り合いの教師から「1973年頃に生まれたらしい」としか教えられなかったからだ。
幼い頃、シェムリアップ郊外で地雷の恐怖に怯えながら両親と暮らしたこと、五歳の時に両親がクメール・ルージュに無残に殺され、自分はそのクメール・ルージュに兵士として育てられたこと、兵士として数え切れないほどの地雷を埋めたこと、それが彼の人生の全てだった。
13歳の時に彼が住んでいた村はカンボジアに侵攻してきたベトナム軍に占領されて、ここで死ぬかベトナム軍のために働くかを選択させられる。
彼はベトナム軍に入って彼を育てたクメール・ルージュと戦う道を選び、1990年にベトナム軍が撤退した後は、カンボジア国軍に入ってさらにクメール・ルージュと戦った。
20歳になって国連平和維持軍(アンタック)に雇われた彼は地雷処理を始めた。そして1997年以降は単独で地雷撤去や不発弾処理を続けてきた。まさに「フリー(どこにも属さず・無報酬)の地雷除去屋」の誕生である。
「今まで地雷を埋めてきたことへの償い」「農業国であるカンボジアに地雷があっては村人が困る」それがアキラ(アキ・ラー)を終わりのない地雷除去作業に向かわせる理由だ。
90年代終わりにアンコール・ワット近くに自宅兼「地雷博物館」をオープンし、処理した地雷や不発弾を展示した。多くの人々にカンボジアの地雷問題について理解して欲しいという願いから。
その「アキラ地雷博物館(The Cambodia Landmine Museum)」は、2007年にバンテアイ・スレイ遺跡近くのクナーサンダイ村(KHNA SANDAY VILLAGE)へ移転して施設や展示物も整備され、今も世界に向けてアキラのメッセージを発信している。
アキラ地雷博物館サイト
http://www.cambodialandminemuseum.org/
「アキラの地雷博物館とこどもたち」
(写真1)アキラ(アキ・ラー)は1973年頃生まれた
(写真2)作業中のアキラと妻
(写真3)命がけの地雷除去作業
(写真4)このような悲劇が今も続く
(写真5)中庭に展示された地雷と不発弾
(写真6)地雷原を再現した一角
文・写真:城戸可路
( カンボジア シェムリアップ)