プノンペンのトゥール・スレン虐殺博物館 A
ある晴れた日の午後、私は友人らとともにここを訪れた。大通りから住宅街に入り、灰色の塀に囲まれた校舎の正門付近で車を降りるとすかさず腕や足を無くした物乞いが近づいてくる。ベトナム戦争が終わっても無数にばら撒かれた地雷は今も撤去が終わらず、大人子供の別なく毎年たくさんの被害者がでているのだ。正門から入り入場料金(たしか2〜3ドル)を支払い、他の観光客の流れに導かれるように敷地内を進む。目の前は芝生が植えられた中庭。もともとは校庭として教師や生徒たちが語らう穏やかな空間だったのだろうが、逆さ吊り拷問に使われた柱や、ベトナム軍が1979年1月7日にプノンペンを制圧しクメール・ルージュが撤退した後にここで最初に見つかった14遺体のために置かれた墓石がある。
中庭を囲むようにして一番手前にあるのがA棟とB棟。A棟は尋問室、というより正しくは拷問室で、当時のままの状態で保存されている。ベトナム軍の従軍記者が撮影したベッドに横たわる死者の写真が壁に掛けてある。そして部屋の中にポツンと置かれた錆びかけたベッドの下は血の跡が生々しく残っている。
B棟も尋問室であったが今はここで殺された人々の写真が展示されている。人々はここに収容されると、まず最初に写真を撮られ、調書を取られそして短い時間の後に拷問され殺された。写真を見るときれいな顔だけでなく、殴られて腫れていたり傷だらけの老人や少女もいる。これら収容者の生前や処刑後の写真は全て記録され、クメール・ルージュの唯一最大のスポンサーであった中国共産党に送られた。毛沢東による文化大革命の混乱の中にあった中国共産党に対して「反革命分子撲滅」の成果を示すためであった。
被害者の写真と並んで番号の付けられていない少年少女の写真があった。中には笑みを浮かべている顔すらある。これはこの収容所内で働いていた看守や医療補助員のものらしいが明らかに10歳〜15歳くらいの少年少女である。クメール・ルージュに洗脳された「子供看守」が同国人を拷問し、何の技術知識も持たない「子供医師」が同国人を死に追いやったのか。そして恐るべき事実は、彼ら看守たちもやがて施設の秘密を守るためにここで虐殺されたということである。
C棟の1階と2階には独房、3階は雑居房があった。煉瓦で区切られた狭い独房で人々は足を鉄の拘束具で繋がれて、声を上げることも寝返りをうつことすら許されず、違反した者は電流が流れる棒で殴られ電気ショックを与えられた。
D棟の3階でドキュメンタリービデオ上映があるというのでそちらへ急ぐことにした。日本の大学にあるような教室では、窓を暗幕で塞いでビデオ上映が始まっていた。観客はファラン(欧米人)観光客やアジア系のやはり観光客が多いようだが、中にはカンボジア人の中高生と思しきグループもいて全部で50〜60人はいただろうか。大きな扇風機が回るだけの部屋が非常に蒸し暑いことと前方に座らなければビデオが見えないのが難儀だ。このビデオ上映は毎日午前10時と午後3時から行われているそうだ。
このD棟には拷問で使われた道具が展示され、実際にどのように使われたかを描いた大きな絵画が掛けられている。また、生き残った8人の中の一人、ヴァン・ナットさんが描いた衝撃的な情景も展示されている。
このトゥール・スレン虐殺博物館の展示物の中で私が一番ショックを受けたもの。それは棚に整然と並べられ展示される骸骨と、骸骨を並べて制作されたカンボジア地図の写真パネルである。もっともこの骸骨地図パネル、以前は本物の骸骨をそのまま展示していて、長いあいだ国内外から非難が相次いだため2004年に撤去されたとのこと。なんとも悪趣味なことである。
(写真1) 骸骨のカンボジア地図
(写真2) 誰もが異様な空気を感じざるを得ない
(写真3) 当時の様子を描いた絵
文・写真: 城戸可路